1.金唐革(紙) ──専ら輸出用
明治の初め、イギリスの鉄道技師に教えられた日本橋の紙問屋が、和紙を用いた 金唐革調の壁紙をつくり、明治6年、ウイーン万国博に出展したが、これが大好評で その後の輸出ブームにつながった。この壁紙は「金唐革」と呼ばれ製造する所も10数 軒に上ったという。明治11年には大蔵省印刷局の前身「紙幣寮」も設備を整え製造・ 輸出して、大いに外貨を稼いだという。
大蔵省印刷局の壁紙設備は民間に払い下げられ、山路壁紙製造所が引き継いだ が、その後、更に日本加工製紙に譲渡された。
金唐革壁紙は、殆どが輸出品で、国内ではあまり使われていないが、それでも、『築 地本願寺』『日本郵船ビル』等、若干は使われ、今に残っているものもある。
2.戦前の壁紙──海外需要が主
明治時代には洋風建築に伴い、欧米の壁紙が入ってきたのに違いないがあまり記 録はない。壁紙張りを主力としている経師業者が、先代から「壁紙を日本で最初に張 ったのは自分だ」という自慢話を聞かされていたが、その工事は、明治27年頃のドイツ大使館でドイツ製の壁紙を張ったものという。
明治の中頃には、襖用の葛布を壁紙用に仕立てて「グラスクロス」の商品名で輸出されていた。また、大正、昭和にかけて、洋紙の壁紙の製造がされ、主に、旧満州や 朝鮮半島に向けて出荷された。さらに、昭和10年には三菱製紙が本格的な壁紙生産設備をもち、三菱壁紙として市販している。
このように、わずかながら壁紙の生産はされていたが、国内の消費はそれほど多くはなく、広範な消費には至っていない
3.戦後の壁紙──布張りが人気、92cm幅が定着
昭和21年に、駐留軍の施設として、焼け残った第一ホテルやパレスサイドホテルが 接収され、内装工事がされたが、このときは、三菱壁紙や鳥の子、加工紙などあり合 わせの資材を使った壁張りが行われた。
戦後の復興建築が盛んな中で、建築家が壁に麻布を張る仕上げを試みた。これが大好評で、その後の布張り仕上げブームのきっかけとなった。当初は、経師業者が仕 入た布を自家で裏打ちし壁紙化して現場で張る方法が採られていたが、需要が拡大 するにつれて、襖紙の卸業者が織物壁紙を在庫するようになった。この壁紙は襖と同じく、日本の建築寸法の90cmモジュールで作られたため、以後、それが壁紙のJIS の寸法ともなっている。
壁紙の品種も、麻織物から、レーヨン等の厚手の織物も加わり、更に、昭和28、9年 にはビニル壁紙も登場している。昭和30年代後半には、現在見られる壁紙の殆どの種類が出揃った。
昭和44年には、壁紙が防火の基材と組み合わせた状態で、防火材料に認定され た。昭和51年には壁紙のJISが制定され、昭和53年には壁紙施工用でんぷん系接着剤のJISも制定されている。同じ昭和53年には、壁張り作業の技能検定も行われるようになった。
平成28年度の壁紙生産・出荷量は、約7億平方メートルである。これはシンガポールの国土とほぼ等しい。これまでの最大は、平成8年度の8億平方メートルであった。